日本サッカーの礎と製薬企業の知られざる関係 旧田辺製薬会長の田邊五兵衛 歴史ひも解く企画展開催 田辺三菱製薬
公開日時 2024/03/15 04:48
日本サッカーの礎を築いた製薬企業経営者がいた―。今やワールドカップ常連国となり、欧州の強豪チームで活躍する選手も数多い日本サッカー。実は歴史をつくった一人に、ある製薬企業のトップがいたことはあまり知られていない。その人の名は14代田邊五兵衛(1908~1972、
写真右は田辺三菱製薬提供)。田辺三菱製薬の前身、田辺製薬の創業家に生まれ、同社の社長や会長を歴任した実業家だ。サッカーの日本伝来間もない大正時代から競技の普及、発展に寄与。2005年に創設された第1回日本サッカー殿堂では、1968年メキシコ五輪得点王の釜本邦茂らとともに殿堂入りを果たした日本サッカー界のパイオニアだった。
五兵衛は1908年、大阪府生まれ。27年には実業団チームの先駆けとなる田辺製薬サッカー部を創設し、31年の関西蹴
球協会設立では初代会長として尽力。36年ベルリン五輪の派遣費用に多額の寄付を行うなど戦前から戦後にかけて財政的にも日本サッカー界を支えた。46年には日本蹴球協会(現日本サッカー協会)の副会長に就任。田辺製薬サッカー部は戦後の全日本実業団選手権で6連覇を果たすなど「社会人サッカーのリーダー的存在」(日本サッカー協会)としてけん引した。社会人だけでなく、少年や女子の育成にも力を入れ、発展に広く貢献したという。
協会機関紙では62~71年までサッカーにまつわるエッセー「烏球亭雑話」を連載。国内外のサッカー事情に詳しく、広く普及した功績は今もたたえられている。五兵衛がユニフォームやボールなどを分析した手記や、収集したサッカーボールなどは今も残っている。
◎田辺三菱製薬史料館で企画展「日本蹴球と田邊五兵衞の系譜」を開催
田辺三菱製薬では3月14日から9月27日まで、田辺三菱製薬史料館(大阪市中央区)で企画展「日本蹴球と田邊五兵衞の系譜」を開催。自筆の史料や年表などを展示して、五兵衛の歩みや功績を振り返ることができる。同社は「黎明期の日本サッカーを支えた五兵衛が残した品に触れながら、日本サッカーの歩みと今日のつながりを感じてほしい」としている。
五兵衛の自筆資料「服色考」(左)とサッカーボール(田辺三菱製薬提供)