君はカティンの森事件を知っているか
公開日時 2010/06/24 04:00
母、妻、娘にとっての事件
何者かが必死に隠蔽を画策しようとも、人間として知らねばならぬ真実がある。その一つがカティンの森事件だ。『カティンの森』(アンジェイ・ムラルチク著、工藤幸雄・久山宏一訳、集英社文庫)は、アンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」の原作として書かれた小説である。
第2次世界大戦中、ソ連(現・ロシア)の捕虜となったポーランド人将校、数千人がソ連内のカティンの森で密かに虐殺された。その中にアンジェイ・フィリピンスキ少佐がいた。息子は必ず生きて帰ってくると、ただひたすら待ち続ける母ブシャ。夫の帰還に希望を繋ぎ、その消息を知ろうと必死な妻アンナ。過去に囚われることより、画学生ユルとの恋に生きようとする一人娘ヴェロニカ(愛称ニカ)。アンジェイの手掛かりは、コジェルスク収容所のアンジェイから届いた1939年12月15日付けの1通の手紙だけであり、ブシャとアンナは何度も読み返したため、今や、その全文を暗記してしまっている。
届けられた手帳
この3人の前に、1945年、突如、アンジェイの部下であり、カティンの森事件の生き残りであるセリム中尉が大佐に昇進して現れる。「少佐殿は奥さんや娘さんのことをいつも心配しておられた。始終、あなた方の話題ばかり。おかげで、暫くするうちに、私まで奥さんや娘さんのことを本当に存じ上げているような気がし始めて」。セリム大佐は、生前のアンジェイについて語れる唯一の存在だ。「少佐殿は毎日、手帳にメモを取っておられました。重要な出来事は全て。この手帳は少佐殿が心を打ち明ける友でした。寝床で背を丸め、壁で鉛筆の切れ端の芯を尖らせているご様子が目に浮かびます」。若いアンナを見入るセリム、そういうセリムを男性として見まいと努力するアンナ。ニカが「ママ、だって、あの方、ママに夢中なのよ!」と口にした時のアンナの驚きよう。そして、セリムは突然、姿を見せなくなる。アンナのために、危険を冒してアンジェイの最期の真実に迫ろうとして命を落としたのだ。
その後、密かにアンナのもとに届けられたアンジェイの遺品の手帳には、凄惨な状況が綴られていた。「肝臓をやられた。昼夜を分かたぬ寒冷と点呼が原因。血尿が出る。何とか持ち堪えたい。生きるのは己のためだけではない」、「万が一に備え、アンナと母の住所をS中尉に伝えた」、「遂に私の順番が来た。命令書の伝達――『私物を持って集合せよ!』。出発直前、持ち物検査。監視兵らが貴重品を没収。私の万年筆も奪われた。NKVD(内務人民委員部)隊長に抗議した。返答は次のとおり――『おまえらの行く先では、もはや無用の品だ!』。分からない、何が私を待ち受けているのか」、「(夜中の)3時30分、コジェルスク駅より西の方角へ向け出発。寒い。移送は囚人輸送車による。最初に自由が奪い去られた、次には誇りを」、そして、最後のメモは「シューバ(冬外套)没収。所持品検査。ベルト、腕時計も没収。読み取った時計の針は6時30分。この後、どうなる?」。犠牲者たちに黙祷!
カティンの森事件の真実
1940年3月5日に下されたソ連共産党政治局の決定により、NKVD(後のKGB)が同年4~5月にソ連内収容所に抑留されていた戦争捕虜のポーランド人将校1万数千人を虐殺した。これは、ポーランド軍に属する将校の約半数に当たる。犠牲者の遺体はカティン等3カ所に埋められた。彼らは、なぜ虐殺されたのか。第1の理由は、1920~1921年のポーランド・ソ連戦争でソ連が敗れ、スターリンがポーランド軍人に強い不快感を抱いていたこと。実際、虐殺された捕虜には、この戦争に従軍した者が多く含まれていた。第2は、ポーランド軍のエリートである将校を抹殺することで、ポーランドに指導力消失の真空状態を作り出し、そこへソ連仕込みの連中を送り込もうとしたのである。
1943年4月、ナチス・ドイツが、占領していたカティンの地で、遺体が埋められた穴を発見。1944年1月、カティンを取り戻したソ連が、「1941年秋にドイツが虐殺した」との捏造調査報告書を発表。1945年にポーランドがソ連衛星国となったため、以降はカティンの森事件の真相解明はタブーとなる。1990年、ゴルバチョフ・ソ連大統領が自国の犯行と認め、ポーランドに謝罪。
株式会社ファーマネットワーク
榎戸 誠
●[ご質問・ご意見・ご要望などは、お気軽にenokido.makoto@pharmanetwork.jpへ]