長年の薄給に慣れてしまったデザイナーHさんは、給与大幅アップに戸惑いを隠しきれず…。

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タブレット・スマートフォン向けゲーム開発が活況で、昨年から関連する人材の採用ニーズがどんどん高まっている。特に経験豊富なデザイナー職は、年収大幅アップの転職を成功させている例が多く、正に「今がチャンス！」と言っていい状況だ。

ところが、クリエイティブのなかでもグラフィックデザインの仕事は、長年、薄給が当然とされていた。当のデザイナー達も「好きでなった就いた仕事だから、仕方ない」「これがこの業界の伝統」という観念が染みついていて、せっかくのチャンスに尻込みをしてしまうことがある。

Hさん（29歳）はゲームのグラフィックを手掛けて8年、ヒット作のプロジェクトも携わったことのある職人気質のデザイナーである。
制作用CGソフトの使いこなすスキルはもちろん、手描きのデッサン力や、分かりやすいアイコンをつくるセンスも抜群で、ゲームアプリの開発では売れ筋のキャリアを持っていた。

ところが、現在のHさんの年収は同年代の平均の半分ほど。かなり苦しいひとり暮らし生活を送っているそうで、聞けば、ついつい趣味（画材やイラスト本など）にお金をつぎ込んでしまって、ほとんど貯金もないのだと明かしてくれた。
「今よりも、年収が上がるとありがたいのですけれど…」
あくまで謙虚なHさんに、我々は
「転職すれば、かなりの年収アップが期待できると思いますよ」
と、明るい展望を語って聞かせたのだった。

ところが、実際に応募先を決めようと求人リストを見ながら話をしていくと、Hさんは年収の高い企業をパスして、現在よりも、ほんの少しだけ給与の高い求人ばかりを選んでいく。
初めのうちは「デザイナーらしい芸術家気質で、仕事の内容にこだわっているのかな？」と思っていたが、同じような仕事でも、わざわざ年収の低い求人を選んでいるようにみえる…。

「わざと年収の高い企業を外して、低い求人ばかり選んでいるように思えるのですが、どうしてでしょう？」
我々の質問に、Hさんは頭を掻きながら
「これまで、ずっと今くらいの給与でやってきました。正直なところ、私に高給の会社が勤まるとは思えません」
と、自信の持てない胸の内を明かしてくれた。
「人材ニーズが高いので、それに応じて全体的に給与を上がってきているだけですよ。Hさんならやっていけると思いますが…」
「でも、大手でもないのに、そんな給与を出す企業は怪しいですよ。世の中、うまい話はないって、よく言うじゃないですか」

さらに詳しく話をしていくと、Hさんには「高給の会社は管理やプレッシャーがきつく、自分の思う通りに仕事を進められない」という思い込みがあることが分かってきた。しかし、それはむしろ逆のはず場合もある。
「資金のない会社は、開発を早めに切り上げようとするようでしょうし、交渉力もないので、発注元の言うなりになりがち。儲かっている会社は、資料を揃えることもできるし、十分に取材をする余裕もあるはず。デザイナーとして納得いく仕事ができるのは、むしろ高給の会社なのでは？」
これを聞くと、Hさんは腕を組んで考え始めた。そこで我々はもう一押し。
「企業ごとに状況は違うので、ここで話をしていても仕方ありません。面接に出向いて、どういう仕事の進め方をしているか、ご自身で聞いてみるのが一番です。デザイナーにしか分からない、仕事のツボというものもおありでしょう」

こうして、恐る恐るといった様子だったが、Hさんは年収の高い（といっても、他業界なら平均レベル）の仕事求人にもチャンレジするようになったのだった。
面接に行くようになると、Hさんは控えめな性格ながら、スキルは高いし、論理的に話をするのも上手い。すぐに、採用したいという企業が次々とあらわれた。
なかでも、シミュレーションゲーム制作をしているA社は、社長がHさんにベタ惚れ。彼を逃してはならぬと、現給与の倍という好条件を提示して、Hさんを迎え入れたのだった。

こうして、Hさんの転職は大成功に終わったのだが…。それから2ヶ月、別の採用の件でA社を訪問した我々は、Hさんを見かけ、声を掛けた。
「お元気そうですね。その後、いかがですか？」
すると、Hさんは声をひそめて返事を戻してきた。
「今のところ、問題はありません。でも、まだ騙されているのではないかと心配です」
「え？どういうことですか？給与は、提示された額をもらっているのでしょう？」
「それはそうですが、本当にもらって良いのでしょうか？後で返せとか、そういうことって無いですよね？」
我々は一瞬、冗談なのかと思ったが、Hさんの表情には間違いなく本気の部分が残っていた。

『デザイナーは、薄給なのが当たり前』という強迫観念は、かくも凄まじいものらしい。せっかくチャンスをモノにしたHさんだが、彼が心から笑える日はいつになるのだろうか？